前回記事でご紹介した「物語の基礎文法」についての深掘り記事です。
前回サラッと3つの基礎文法をご紹介しましたが、本当は狭くて奥深い世界なので、その奥深いところを今回は解説します。
前回の復習
物語の3つの基礎文法
- 行って帰る物語
- 難題を解決する物語
- 欠如を回復する物語
どの基礎文法もめちゃくちゃ深くて、スーパーウルトラ級に重要です。
なので、基礎文法は全3回のシリーズでお届けします。
第1~第3文法まで、ひとつひとつ丁寧に解説していきますね。
とても大事なので、どうかここは流し読みしないでください。
それでは、物語の基礎中の基礎文法、第1回「行って帰る」物語を深掘りします。
今回のトピックス
- 行って帰る物語 “There and Back Again” トールキンの哲学
- 通過儀礼としての「行って帰る」TDLが人気の理由
- コインの表「行って帰る」の裏は「やって来て去る」転校生ものと鶴の恩返し
- まとめ 行って帰る=冒険=通過儀礼=成長
行って帰る物語 “There and Back Again” トールキンの哲学
「行って帰る」という言葉は、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作として有名な J・R・R・トールキン著「指輪物語」の序章にあたる「ホビットの冒険」の原題が由来です。
原題は ”The Hobbit or There and Back Again”
直訳すると「かのホビット 行きて帰りし物語」(瀬田貞二訳)
「指輪物語」の訳者として有名な児童文学者だった故 瀬田貞二先生が、この「行きて帰りし物語」こそがトールキンのすべての体験の中から出てきた一つの結びの哲学だろうと述べています。
それというのも、トールキンは言語学者にして神話学者でもあり、それらの知識を総動員して作り上げたのが、「ホビットの冒険」と「指輪物語」なのですね。
なので、「行って帰る」はまさしくトールキンの哲学そのものと言えるのです。
そしてこのイギリス産の「指輪物語」は、アメリカに渡ると『D&D』というボードゲーム(テーブルトークRPG)の翻案元となり、それが黎明期のRPG(コンピューターゲーム)へ進化し、さらにはその枠組をテレビゲーム(ファミコン)の『ドラゴンクエスト』が借用して代々引き継がれていった……とホントはもっと複雑ですが大雑把にいうとこんな感じなのです。
つまり、ゲーム系ファンタジーの元ネタは、トールキンの「指輪物語」であり、原点は「ホビットの冒険」なのですね!
だから「行って帰る」物語は、ゲーム系ファンタジー物語の基本パターンなのです。
同じく、トールキンと大学で同僚だったC・S・ルイスの「ナルニア国物語」(こちらも映画化)でも、主人公たちはクローゼットの向こう側のナルニア国に「行って帰る」のです。
その他にも有名なところでスティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー」(映画の方が有名)、前回記事にも書いた宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』他にも『崖の上のポニョ』『となりのトトロ』もそうです。
そして、これら「行って帰る」物語のもっとも原初的な形は、「いないいないばあ」です。赤ちゃんを相手にするとついやってしまうナゾに強制力がある遊びですよねw
赤ちゃんにとって「いないいないばあ」は、「お母さんがいる」世界から「いない」世界に行って、再び「お母さんがいる」世界に戻ってくる大冒険なのですw
また、2歳ごろの子どもは「行って帰ってくる」遊びを儀式的にくり返すようになります。いわゆるごっこ遊びですね。
「いってくるね!」と部屋から出て行って、すぐに「ただいまーっ!」と戻ってくるような遊びです。
もう少し大きくなると、集団で行って帰る遊びをするようになります。「隠れん坊」「だるまさんが転んだ」などですね。
また、動きとしての「行って帰る」は、「花いちもんめ」が典型的です。
このように子どもの原初的な欲求として、まず「行って帰る」があるんですね。
これについては、前述した 瀬田貞二先生もこうおっしゃってます。
幼い、いちばん年下の子どもたちが喜ぶお話には、一つの形式というか、ごく単純な構造上のパターンがあるんじゃなかろうか(中略)その構造上のパターンというのは、「行って帰る」ということにつきるのではないか、それがぼくが立てた仮説なんです。(中略)人間というものは、たいがい、行って帰るもんだと思うんです。(中略)小さい子どもの場合は、単純に、自分の体を動かして行って帰るという動作がとても多いわけですね。(中略)子どもたちにとって、その発達しようとする頭脳や感情の働きに即した、いちばん受け入れやすい形のお話ということになりますと、(中略)とにかく何かする、友だちの所へ行ったり冒険したりする。そしてまた帰ってくる。そういう仕組みの話を好むのは、当然じゃないでしょうか。 瀬田貞二「幼い子の文学」(中公新書・1980)
子どもは日常が冒険です。
幼い子どもにとって「行く」先はたいていが未知の世界です。この世界のほとんどを彼らは知らないのですから。
だから「怖い」それは冒険なのです。
自分の安全圏を離れて、いままで知らなかった「未知の世界」に行って、これまでとは違う経験、知識を得て、元の世界に戻って来る。
冒険すると、元の世界がいままでとは違って見えるようになります。
それは、成長を意味します。
「行って帰る」物語は、邦題「ホビットの冒険」そのままに、冒険によって人が成長する物語のことです。
通過儀礼としての「行って帰る」TDLが人気な理由
冒険は、民俗学的な観点から見ると、通過儀礼(イニシエーション、成年式)とほぼ同じ作用をもたらします。
民族儀礼では、成人を迎える子どもを、山の中や洞穴などに隔離したり、一人で狩りをさせたり、森の奥の蜂の巣を獲りに行かせたりします。
安全圏を離れて怖い経験をさせるのです。ただ一人隔離された孤独の経験をさせるのです。
それは擬似的に社会から追放された孤独な放浪の旅なのです。
そういった経験を乗り越えさせることで、行く前とは違う人間になったと見なし、一人前の大人として認めるのです。
成長するために必要な経験こそ「行って帰る」です。
子どもが大人になるために必要不可欠な手続きです。
つまり「行って帰る」とは旅であり冒険であり通過儀礼(成年式)です。
ですが、アナタもご存じの通り、現代社会では通過儀礼はほぼ消滅しています。自治体が催す成人式などではまったく意味をなさないことは明白です。
ですから、TDL(東京ディズニーランド)は子どもから大人まで大人気なのです。
なぜなら、TDLのアトラクションのほとんどは、乗り物に乗って「異世界」に行って帰ってくる構造になっているからです。(孤独ではありませんがw)
ホーンテッドマンションなど典型的な通過儀礼ですよ~。おまけにすべてのアトラクションに物語も付いてきて完璧ですw
また、「小説家になろう/小説を読もう」サイトでも「異世界転生・転移」モノが大人気なのはそういう理由です。
通過儀礼の代わりなのです。
冒険らしい冒険の無い現代社会において、「行って帰る」物語&体験の重要性はどんどん増しています。
それは成長の機会ですから。
だから人は物語を必要とし、アトラクションに群がるのですw
コインの表「行って帰る」の裏は「やって来て去る」転校生ものと鶴の恩返し
さて、「行って帰る」物語の変種といいますか、逆バージョンといいますか、いわゆる転校生ものについても「行って帰る」のバリエーションの一つ「やって来て去る」物語だよ、とうことをお伝えしておきたいと思います。
「行って帰る」の主語は主人公ですが、たまに転校生が主語になるパターンもあります。
それが学園物語定番の「やって来て去る」転校生もののお話です。
説明するまでもなく、転校生側の視点から見れば、「行って帰る」物語になっています。
要するに主人公が異世界に行くのではなく、異世界人がこっちに来るパターンです。
主人公が行っても、向こうが来ても、結局は未知の出来事が展開されて、いずれ日常に戻る、といった点ではまったく本質は同じです。
なので、「行って帰る」の反対に「やって来て去る」バージョンもあるのだと覚えておきましょう。
ちなみに、鶴の恩返しもこのパターンです。
民俗学上「異類譚(いるいたん)」と総称される昔話のひとつで、人ではない異性が主人公のもとにやって来て、主人公と結婚して、正体がバレるなどの出来事があって、去って行くというお話です。
先日TV放送されていた細田守監督の映画『時をかける少女』を久しぶりに見たのですが、このお話も主人公が行くというより、未来から来た青年が「やって来て去る」お話でした。
また、前前前世でお馴染みの新海誠監督の映画『君の名は』は、主人公とヒロインがお互いの体を「行ったり来たり」する変種でしたw
こうしてみると、「行って帰る」には「やって来て去る」だの「行ったり来たり(入れ替わり)」だの、様々なバリエーションがあることがわかります。
「行って帰る」の基礎文法をマスターした暁には、ぜひあなたも変種の創造にチャレンジしてみてください。新たなジャンルが開拓できるかもしれませんよ?
まとめ 行って帰る=冒険=通過儀礼=成長
なぜ行って帰る物語が、物語の第一文法のなのか、ご理解いただけたのではないでしょうか。
人間の成長物語そのものが「行って帰る」行為に集約されているんですね。
「行って帰る」は
赤ちゃんにとっては「いないいないばあ」で
幼い子どもにとっては「隠れん坊」で
少年にとっては「冒険」で
青年にとっては「通過儀礼(成年式)」で
大人にとっては「旅」で
それらすべては、成長のための経験です。
「行って帰る」は人生の基本動作であり、ゆえに物語の基本パターンであるのです。
最後に、「行って帰る」文法のまとめとして作家の高橋源一郎先生が「物語の体操」(大塚英志)の文庫本解説に寄せた言葉が胸に響いたので、ご紹介します。
もっとも簡易で、かつ原初的な「物語」とは、子どもが大人になる「物語」、成長する「物語」だ。もっというなら、どこかに「行って帰る」ことによって主人公が変化する「物語」だ。それ以上の「物語」を、人間は発明しなかった。作り出す必要がなかった。いまと違う自分がありうることだけが、人に生きうることの可能を教えるのである。その意味で、その意味だけで、「小説」や「文学」に意味があるのだ、とぼくは考える。それは、時間潰しのために存在するのではない。それは、人が変わりうるという希望を捨てられないために存在するのだ、とぼくは考える。 「物語の体操」大塚英志(朝日文庫・2003)解説より
誤解のないように付け加えておきますが、ダイナレイは時間つぶしのための読書(娯楽小説)を否定する気はまったくありません!
むしろ小説は娯楽だと思っておりますw
まずは書くことを楽しんで、その上で読む人を楽しませて、さらに読者の現実によりよい変化をもたらす――これができたら最高です!
というわけで第1回はこれにて終了。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
次回は「難題を解決する」文法を深掘りいたします。
それでは、また~! ダイナレイでした。